医師と言えども転職が当たり前の時代になってきました。その理由は様々ですがやはり、「これからのキャリアプランを考えて」、「年収をもう少し増やしたい」、「仕事に忙殺されていて、もう少し自分や家族との時間がほしい」と言った、誰もが納得できる理由が多いように感じます。一度しかない人生ですから、悔いのない生き方・働き方を選びたいものです。転職に悩んでいる先生方か、ぜひ素敵な仕事・職場にめぐり合えることを祈っております。
さまざまな医師の方々と出会う毎日。教授はもちろんですが、部長を務めておられる准教授との出会いがありました。 そして医師人生の中で経験された数々の事柄を熱く語っていただきました。この話を各医療機関の最前線で力を尽くしておられる先生方にお伝えしたいと思います。 「これまで大学崩壊と言われていたが、当初は診療科(教室)の崩壊と言える状況だったと思う。しかし近年では科に留まらず、大学医局自体が崩壊していると感じることが多くなってきた。」 そう語り始められた准教授は50歳を超えておられるベテランの医師です。 准教授は学会等で情報交換を行うなかで感じたそうですが、さらに、「崩壊はスキルのある医師とそうでない医師の格差も原因の一つではないか」との意見を聞かれたそうです。これは救急のあり方を見た際、感じることが多いそうで、まわりにおられた医師の方々のなかにも頷かれていた方がいました。 「近年、メディアでは救急の取り組みをクローズアップしており、受け入れる場所には可能な限りの搬送が行われている。その結果、現場は回らないのが現状。そのような取り組みを繰り返すうちに、ドクターが救急に対し一線を引くようになる。 無理を続けていると、そのようなドクターが増えていく。現代は臨床と言えど、昔ほど臨床をしなくても良い時代。医師が携わる職種の増加もそれを手伝っているのだろう。 考えると10年前と今では明らかに違いがある。その臨床ありきの生活が失われてきた10年間くらいのうちに育ったドクターは言葉の良し悪しはあるが、逃げ道も多くなったと感じる時がある。 しかし大学病院はそのような状況の逆を辿り、過去の救急体制を変えることなく遂行する。対応するドクターがいないとわかっているにも関わらず、それでもやらなければならない状況となる。 医師は目の前の患者を助けようとする意識や使命感に限界を感じ、且つ無理できない環境や現実とに挟まれ、医師であること、人間であることの呵責に葛藤を繰り返したのではないだろうか。」 准教授は若かりし頃、当然医師の歩む道として救急現場を数多く担当され、休んだ記憶はないと言われていました。 医師になられた当初は「人の命を助けたい」ただその一心であったらしい。 しかし、しばらく経って年齢を重ねた時、忙しすぎる毎日にその理念が忙殺されてしまった経験をお持ちでもありました。 その時感じたことは「医師も人問」という本音でした。 「心の奥底で医師と人としての立場に苦しみを覚えた」とも言われました。 何よりもその苦しみの大半は目の前の患者様より、家族の「助けて欲しい」という思いが一番重かったそうです。 その反面、自らの家庭と仕事の狭間に追い込まれてしまい、さまざまなことに対し、あきらめることを覚えた時期でもあったといいます。 「今思えば、あの時に救急医療のあり方について考えれば良かったと思うが、正直できるはずもなく・・・」 そんな中、准教授の転機は訪れました。小学生だったお子様が交通事故に遭い、自院に搬送されなかったという事実。 「自分は家族さえも守れない・・・」 その時何かが弾けました。准教授はそんな思いから救急医療をリタイアされ、一整形外科医としての人生を選び大学病院を退職、民間病院へ転職する道へと進まれたのです。 2、3年経過した頃です。 民間病院で整形外科医として、それなりの忙しさのなか、新たな葛藤が生まれました。 「家族のために選んだ道だと思ったが、本当にそれで良かったのか」 お子様の中学卒業をきっかけに、思わず家族にその思いを伝えたそうです。 奥様はため息混じりに「やりたいことをやればいい」と微笑みを浮かべながら一言だけ言われたといいます。 そして准教授は、自らの気持ちに正直に、もう一度大学病院へ戻ろうと決意をされたのです。 現在では、大学病院の救急部の体制を整形外科として過去の経験を基に作りあげる役割を担い、自ら救急の第一線に立つ道を選んでおられます。 参考になさってください。 実際に医師転職支援会社を調べてみたいと思ったら >>>医師転職サイト比較ランキング
さまざまな医師の方々と出会う毎日。教授はもちろんですが、部長を務めておられる准教授との出会いがありました。
そして医師人生の中で経験された数々の事柄を熱く語っていただきました。この話を各医療機関の最前線で力を尽くしておられる先生方にお伝えしたいと思います。
「これまで大学崩壊と言われていたが、当初は診療科(教室)の崩壊と言える状況だったと思う。しかし近年では科に留まらず、大学医局自体が崩壊していると感じることが多くなってきた。」
そう語り始められた准教授は50歳を超えておられるベテランの医師です。
准教授は学会等で情報交換を行うなかで感じたそうですが、さらに、「崩壊はスキルのある医師とそうでない医師の格差も原因の一つではないか」との意見を聞かれたそうです。これは救急のあり方を見た際、感じることが多いそうで、まわりにおられた医師の方々のなかにも頷かれていた方がいました。
「近年、メディアでは救急の取り組みをクローズアップしており、受け入れる場所には可能な限りの搬送が行われている。その結果、現場は回らないのが現状。そのような取り組みを繰り返すうちに、ドクターが救急に対し一線を引くようになる。
無理を続けていると、そのようなドクターが増えていく。現代は臨床と言えど、昔ほど臨床をしなくても良い時代。医師が携わる職種の増加もそれを手伝っているのだろう。
考えると10年前と今では明らかに違いがある。その臨床ありきの生活が失われてきた10年間くらいのうちに育ったドクターは言葉の良し悪しはあるが、逃げ道も多くなったと感じる時がある。
しかし大学病院はそのような状況の逆を辿り、過去の救急体制を変えることなく遂行する。対応するドクターがいないとわかっているにも関わらず、それでもやらなければならない状況となる。
医師は目の前の患者を助けようとする意識や使命感に限界を感じ、且つ無理できない環境や現実とに挟まれ、医師であること、人間であることの呵責に葛藤を繰り返したのではないだろうか。」
准教授は若かりし頃、当然医師の歩む道として救急現場を数多く担当され、休んだ記憶はないと言われていました。
医師になられた当初は「人の命を助けたい」ただその一心であったらしい。
しかし、しばらく経って年齢を重ねた時、忙しすぎる毎日にその理念が忙殺されてしまった経験をお持ちでもありました。
その時感じたことは「医師も人問」という本音でした。
「心の奥底で医師と人としての立場に苦しみを覚えた」とも言われました。
何よりもその苦しみの大半は目の前の患者様より、家族の「助けて欲しい」という思いが一番重かったそうです。
その反面、自らの家庭と仕事の狭間に追い込まれてしまい、さまざまなことに対し、あきらめることを覚えた時期でもあったといいます。
「今思えば、あの時に救急医療のあり方について考えれば良かったと思うが、正直できるはずもなく・・・」
そんな中、准教授の転機は訪れました。小学生だったお子様が交通事故に遭い、自院に搬送されなかったという事実。
「自分は家族さえも守れない・・・」
その時何かが弾けました。准教授はそんな思いから救急医療をリタイアされ、一整形外科医としての人生を選び大学病院を退職、民間病院へ転職する道へと進まれたのです。
2、3年経過した頃です。
民間病院で整形外科医として、それなりの忙しさのなか、新たな葛藤が生まれました。
「家族のために選んだ道だと思ったが、本当にそれで良かったのか」
お子様の中学卒業をきっかけに、思わず家族にその思いを伝えたそうです。
奥様はため息混じりに「やりたいことをやればいい」と微笑みを浮かべながら一言だけ言われたといいます。
そして准教授は、自らの気持ちに正直に、もう一度大学病院へ戻ろうと決意をされたのです。
現在では、大学病院の救急部の体制を整形外科として過去の経験を基に作りあげる役割を担い、自ら救急の第一線に立つ道を選んでおられます。
参考になさってください。
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